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中 馬 街 道   

製 作 中


概 略
 中馬とは、「江戸時代の中ごろ、信州伊那谷で発生した、馬の背で荷物を運ぶ人々の組合の名前」であり、広くはこの地方の運送業のことをさしています。   
 
 語源は、1)荷を運んで駄賃を稼ぐ馬(駄賃馬)からとか、2)荷主と買手の間を中継する馬(中継馬)から来たと思われますが、定かではありません。


 中馬が繁栄した理由ですが、五街道では参勤交代、幕府諸藩の荷物優先、伝馬制などのため、1)運賃が高い、2)時間がかかる、3)荷が傷みやすい、などの弊害が生じていた。
 中山道においても伝馬制により幕府公認の「宿継ぎ(しゅくつぎ)」がありましたが、宿を通さずに直接運ぶ「つけ通し」(無免許)が求められていました。これが中馬の発生と繁栄につながっていました。そのため、しばしば紛争が起こり、中馬頭数の制限などの裁きが出されることもありました。 現在にも通じるところがありますが、自由なビジネスチャンスへの挑戦である側面も見受けられました。  
 中馬街道とは中馬が盛んに行きかった街道でありますが、ほかにも、足助から見ると「飯田街道」「伊那街道」、飯田から見れば「三州街道」、主要な荷物の名前から「塩の道」とも呼ばれていました。
 
 足助はその物流の中継地として、小さな谷間の町にもかかわらず、たいそう繁栄した時代がありました。現在でもそのたたずまいを残している町並みが残っています。
 
 しかし、この中馬の道も中央線・飯田線の開通、運送馬車・自動車の出現、ダム建設による矢作川水運の終焉などにより、衰退の道を歩むことになりました。

 







 
 

 三河湾からの塩は船で矢作川を3〜5日程度で上り、古鼠(ふっそ)(現豊田市扶桑町)で馬に積み替えられる。
 一部は巴川を上り、九久平まで運ばれた。船の輸送コストは馬の約1/8であった。
 左の写真は現在の古鼠。

 
 古鼠の位置はここです。












広報かみやはぎ03.1月 中馬の話題が掲載されています。