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  よ く あ る 質 問

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Q1
「もみじ」と「かえで」はどう違うのですか?
A1
「もみじ」とは「紅葉」と書きますが、「かえで」に限らず、秋に紅葉している葉っぱを「もみじ」と言います。
 「かえで」は葉っぱの形が「かえるの手」に似ていることが名前の由来のようです。
 かえでの紅葉は大変美しいので、「もみじ」が「かえで」をさすような使い方がされています

語源由来辞典
カエデともみじ


Q2
今年の紅葉の見ごろはいつごろですか?
A2
 「今年の紅葉の見頃」という質問ですが、はっきり言って分かりません。
例年ですと、11月20日過ぎ、という答えしかできないという感じです。
2002年でしたか、ものすごく紅葉がきれいな年があったのですが、この時のピークは、18日でした。2004年は、27日ごろだったと思います。
その年の気候、温度、日照などさまざまな条件によりそのくらい違いますので、正確な日にちをお答えするのはとても困難です。
また、足助でも場所により2週間ぐらい時差があります。
彩りも年によって、場所によっても違います。

 ガイドするお客様には、「11月の足助には、来ない方が良いですよ。12月の初めにこられた方が良いですよ」と説明しています。昨年の場合、12月15日まで綺麗でした。この時期には多くのお客様がいらっしゃるので、相当な人出になります。

 もみじまつり期間中、夜のライトアップもしていますので、時期や時刻を工夫されて足助にいらっしゃるとよいのではないでしょうか。


Q3
足助の名前の由来は何ですか?人名から来ているのですか?
A3
足助の名前の由来はよくわからないそうです(郷土史研究家による)。
平安時代末期に足助氏初代の重長公が尾張の山田からやって来るのですが「山田の重長」と名乗っていたのが、足助に来てから「足助の重長」と名前を変えていることからもわかるように、当時既に足助という地名があったようです。
 ちなみに、現在の足助には「足助」姓を名乗っている人は一人もいません。




Q4
綾渡の盆踊は特徴があると聞いていますが、どのようなものですが?
A4
 毎年8月10日と15日に平勝寺境内でおこなわれます。綾渡の「夜念仏と盆踊」は、昭和37年に県の無形文化財に指定され、昭和48年には町教育委員会によって8mm映画と録音テープによって記録されました。平成9年12月15日に、文部大臣によって重要無形文化財に指定されました。その指定理由をかいつまんでみると、「鉦を打ちながら念仏を唱和する夜念仏と、それに続く、楽器を使わない歌だけの盆踊のことで、始まりは明確ではないが、遅くとも江戸時代から伝承されていると考えられます。盆に先祖供養などのために行われる念仏踊や盆踊は、太鼓を打ちながら激しく踊ったり、三味線や太鼓にあわせ華やかに踊るなど、全国各地で多様に展開しているが、綾渡の夜念仏と盆踊は、盆に行われる芸能の古風な姿を伺わせ、芸能の変遷の過程と地域的特色を示すものとして特に重要である。」とあります。つまり、全国各地の賑わしい踊りではなく、また、東三河の「ハネ込み」のように激しく華やかに踊るものではなく、大変古風な姿を伺わせ、芸能の変遷の過程と地域的特長を示すのもとして大変貴重であるわけです。

 綾渡は、足助の中心街から直線距離で4km東方にあり、標高は500mであり、急坂を登ると文字通り三河高原の様相を呈しています。そこに重要文化財「木造観音菩薩坐像」を擁する由緒のある曹洞宗の鳳凰山平勝寺があります。しかし、現在の綾渡も例外ではなく過疎化がはなはだしく(2005年現在綾渡は総戸数27)、担い手の青年層(若連中と呼ばれ、義務教育終了時の3月より35才の2月まで)を極めて少なくし、夜念仏と盆踊は保存会によって維持しなければ伝承できない状態となっています。


 かつては足助の各地で「夜念仏」は行われており、昭和の後期まで行われていたところもありましたが、綾渡を除き、中止または、中断しています。そして、中断した地では「夜念仏供養塔」が建立されているので、その歴史を垣間見ることができます。旧足助町内には17箇所に「夜念仏供養塔」が残っています。また、切山のように昭和になって再開されたところもあったと記録に残っています。
 旧足助町以外にも、旧旭町、旧稲武町、そして、旧串原村、旧山岡村、旧上矢作町などの東濃地方にも「夜念仏供養塔」は多数存在するので、塩の道などの交流などからも同じような文化の伝承があったものと推測されます。

  
       
        夜念仏供養塔(左旧足助町内 右旧稲武町内)

 さて、綾渡の「夜念仏」は民俗芸能というよりは、宗教儀式そのもののようです。村の中で新仏のある家(一年以内に死人があった家)を廻り、回向を手向けたものであったようです。新仏が親であれば「親和讃」、子供であれば、「賽の河原」と、手向ける仏によって異なる和讃を称えたようです。
 夜念仏の行列は列の最前最後に折子灯篭が各1、香炊1、音頭が唱えるとそれを側が唱和するのです。服装は浴衣で白足袋、下駄、菅笠をまといます。それと各人がめいめいに持つ直径10cmほどの鉦とたたく撞木だけです。 


 折子灯篭 香炊  音頭  側       折子灯篭
(極楽の絵)               (地獄の絵)

          ○  ○ ○ ○、、、 
 ○    ○                 ○
          ○  ○ ○ ○、、、 

             
   
            極楽の絵と地獄の絵


 さて、一方の盆踊ですが、新仏の家を一行が訪ね、供養が終わるとその家からはお礼の意味を込めて、お茶やお菓子、時には肴や酒が出されました。故人をしのびながらしばらく休み、ご馳走をよばれたからと、折子灯篭を庭の中央に立てて、その回りで手踊りをいろいろと踊ったというのが、現在の盆踊りのもとになったもののようです。
 一軒の家での夜念仏が終わると、次の家に向かいました。昔は子供などの亡くなることが多く、新仏のある家は想像以上に多かったようです。一晩に2,3軒回るのは普通であったようです。現在では平勝寺の境内に折子灯篭を立てて、酒などの接待はないので、休憩の後踊りが始まります。古くは若連中の念仏衆だけであったが、いつからか老若男女も加わって踊るようになってきました。
 
 
 日中戦争や太平洋戦争が始まり、また、それ以前に、芸能がお上から好ましくないと見られていた時代に、そのまま中止になったところもありますが、
戦後、綾渡の夜念仏と盆踊は再開され、一時は足助の観光資源のひとつとして、演出もされていきましたが、それらの障害を乗り越えて、本来の姿を取り戻していることは、まことに喜ばしいことです。単に形を伝えるのではなく、先祖の心を受け継ぎ、長く伝えたいという地域の人々の思いが、本来の姿を今日に伝えることになったと言えるでしょう。

 
      






観光協会のホームページにも詳しい解説があります。

*参考文献 「綾渡の夜念仏と盆踊」 発行 足助町教育委員会 編集 足助資料館
      「足助町誌」      発行 足助町



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